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白で黒を描く [写真]

高校、大学と書道部に在籍していた。中学校の頃にサッカー部をやめる条件として、担任の先生から何か他の部に所属することを提示され、なんか納得いかないままに「じゃ書道部で」と。なぜそこで書道部にしたかは全く覚えていない。高校時代は週に一回顔をだすかださないかぐらいで、展覧会前にひたすらつめて書き続けるという夏休みの宿題状態。

大学に入っても他に別にしたいこともとりたててなかったので書道部に入った。そこの先輩に書道に非常に熱心な方がいらっしゃって、触発されて少し真面目に取り組むようになった。
その先輩がおっしゃっていたのがこの一言。

「K_sukeくんの書は、ただただ黒い墨で文字を書いてるだけにすぎない。
書道は黒と白だけで構成される。もう少し、白を書くことに注力してみなさい。」

白を書くという発想に驚かされた。
黒は白を活かすためにある、そういう逆転の発想で書いたのが三年生のときのこの作品だ。

僕の卒業校の創始者である新島譲の寒梅の詩が題材。

 庭上の一寒梅 笑うて風雪を冒(おか)して開く
 努めず 又、争わず
 自ずから占(し)む 百花のさきがけ。

PCを整理していて当時の写真がでてきて「中途半端でおわった書道をまたやってみるのもいいかもなぁ」なんて思ってしまった。


はてさて

このブログ「懐疑的な会議」は、完全なる僕の自己満足で作ったものであり、それがゆえに軸がない。サブタイトルに「思いつきであり、備忘録であり…」と書いているとおり。

情報を受け取る者に対して、送り手が明確な意図を持っていなければ、全く持って「byte」の無駄遣いであること甚だしい。そして世にある8割のブログはこのbyteという有限的なリソースを食い潰している。「自分の日記なんてものは、日記帳にでも書いておけ」というものだ。

それをわかった上でこのブログをはじめてみたのだけれど。
とそう言い訳した上で言わせてもらいたいのだけれど。

コメント数 → 5
コメントしてくれた人の数 → 1
niceの数 → 9
niceしてくれた人の数 → 2

・・・。

・・・。

いやまぁ、言いたいことは2つですよね。

1つは、「yutakami先生、ありがとうございます(泣)」
もうひとつは、「ふん、いいんだもんね。どうせひとりごとだから。このブログは「ブログにおいて軸がない。ペルソナを設定していない。」ことがいかにダメかということを立証するための検証実験的意味合いであり、世の中で無駄にbyteを浪費している者達への警鐘なのだよ!」

で。。

この頬を流れる熱い液体は何・・・?

引き続き本ブログを宜しくお願いします。
今後もこんな調子で切なく続けます。


上流の皮をかぶった下流

最近あまり服飾に興味が無く、一年の七分の五をスーツで過ごす生活に慣れてしまったこともあり、買い物にとんと行かなくなってしまった。とはいえ、さすがに「一昨年もこのセット着てたな」というものが多くなり、腰を上げて買い物などにいってみたりした。考えてみれば、東京で暮らしていながら新宿、渋谷、銀座、原宿、六本木・・・まぁまずオフに行った記憶がない。

というわけで、六本木ヒルズ、シオサイト、新丸ビル。一応一通り行ってみた。
なんだろうな。
セレブリティな雰囲気を醸しながらも洗練された身なりをした人たちはほんの僅か。
テナントもそれほど高価なものをだしているわけではない。
中流階級で十分に支払える程度のもの。
親子連れ、学生カップルなどなど、僕を含め庶民しかいない。

結局そのようなもんなんだろうな。

上流のお化粧を施した下流(中流)といえばいいのか。これは。

綺麗な建物、モダンな内装、きらびやかに飾った店員。
しかしそれらは、その実、下流を内包した紛い物にしか思えなかった。


ITポートフォリオ戦略論 [書評]

いわゆる仕事本。
ポートフォリオとは元来財務投資にまつわる用語だが、IT領域においてもポートフォリオを用いて投資妥当性や、ROIを考慮した投資を行うべきであるとといている本。この書籍では、ITポートフォリオ戦略が何故必要か、そしてそのベネフィットは何か、具体的なアプローチ手法にはどのようなものがあるかについて実例を交えながら論を展開している。

理想のみを追従した理論に終始することなく、実際にITポートフォリオに取り組む際に懸念されること、例えば業界別の投資比率や失敗例から抽出された教訓など、を随所に盛り込んでおり非常に好感が持てた。

実務を経験した者からすれば「ITインフラ統合は理想的であるが、各事業部長から業務オペレーション面での柔軟性が欠如するのではないかと領土侵犯のような誤解を与え、反発を食らうことがままある。」といった指摘には、思わずあるあると頷いてしまう。

今ちょうど、とある会社の全システムについて中長期を見据えた投資配分、投資スケジュールを考えるプロジェクトについている。最も苦心するのは、投資評価方法である。システム規模、インフラ統合による年間削減額など定量的指標については比較的容易に求めることができる。DCF法を活用するケースも多い。ただ、定性的にならざるをえない指標・要件、例えば政策上の重要度等についての取扱いが困難を極める。定量指標と定性指標をそれぞれどう重み付けして、投資の優先順位等を決めればよいか。全ての要素を計量化することは不可能に近いし、仮に計量化したとしても、その算出式によってはじき出されたアウトプットの妥当性の判断は保証されない。ここは最終的にはクライアントと膝を突き合わせて、泥臭い調整を重ねながら決定しなければならないことは明白なのだが、何とも自分の中にしこりが残る感じがして気持ち悪い。

と思って色々とネットを徘徊していたら、DCFやリアルオプションを金融工学以外へ適用させる取組みはまだそれといった成果も出ておらず、解はなさそうだった。

うーん、もやもやして寝れない。


生贄を求める人々

つい3、4日前のことである。
秩序なき超巨大掲示板集合体”2ちゃんねる”の中で、あるスレッドがたった。

大学卒業を控えた大学生が、SNS大手のmixiの中で、自身の悪事を綴った日記が2ちゃんねるで公開された。その悪事というのが、電車のキセル&逆ギレ、女子中学生を妊娠・中絶、共有ソフトを使った違法コピーなどなどまぁそうそうたる内容なのだが、そこから2ちゃんねるの中で火がついた。

次から次へと様々な掲示板の住人に飛び火し、わずか2日のうちに以下のことが起きた。

mixi経由で、氏名、顔写真、大学名、内定先企業がばれ、あらゆる場所に公開される。

本人のバイク画像や住所を元に、自宅が割れる。更には実家も割れる。

彼女の氏名、勤務するバイト先も割れ、彼女の写真も公開される。

大学、バイト先、警察、内定先、自宅、実家、あらゆる先に、
2ちゃんねるの住人の手によって電話抗議、メール抗議が行われる。

恐らく、彼の社会復帰は相当難しい。
内定先企業の株価にまで影響し、事実確認がとれた時点で、内定取り消しや大学からの処分も十分にありえるだろう。

ネットにおける脅威はもちろん感じるんだけど、なんというか、生贄を求める社会というかそれがね・・・。顔が見えない多くの大衆は、顔が見えないからこそ、直接的に触れ合わないからこそひどく残酷になれる。

人身御供を否定してきた。
魔女裁判を否定してきた。
偶像崇拝を否定してきた。

のに、

大臣が死ねば許す。
社長が土下座すれば許す。
公務員の給料があげればキれる。下がれば許す。

文化と理知の仮面の裏には、至極野蛮で原始的な本能が隠蔽されている。
ざんぎり頭をたたいてみると、結局は粗暴な人間らしさしかでてこなかったという皮肉。


パパとムスメの7日間 [書評]

近年はやりのヤリスギ感の否めないメディアミックスの産物。
アニメから小説に、小説からドラマに、ドラマから映画に、映画から舞台に。

パパとムスメの7日間に出会ったきっかけはTBSの同名ドラマ。
舘ひろしと新垣結衣(ガッキー)。
異色のコンビネーションが織り成すドラマに少し興味があった。
そしてはまった。

八重洲ブックセンターに別件で寄った際に、ドラマの元となった小説が山積みになっているのをみかけ、ついついレジに運んでしまった。

ストーリーは至極単純明快である。
世代の違いというありふれた理由から、父と娘の間には表面上はそうではないが、その実、マリアナ海溝のごとき深い溝ができていた。
とある事故をきっかけに、二人の身体と心がいれかわり、互いに真逆の生活を強いられることに。
父親は女子高生の立場にどぎまぎし、娘は大人の仕事場に驚きを覚える。
その模様を描いた7日間のストーリー。

人間は他人になることは出来ない。当たり前のことであるけれど、そういった意味で「客観性」を究極的に体感することなどは実は出来ないんである。(客観性を人一倍感じ取れる人間が、小説家であったり、そしてトップセールスマンであったりするわけだけれど)

その客観性を筆者は上手くついている。
40をこえたおじさんが突然女子高生となり高校生活の中に放り込まれたら何を思うか。そして、まだ20にもならない少女が、都合や社交辞令の渦巻くビジネスの場に身を置いたとき何を思うか。秀逸なのは、お互いに現状に戸惑いながらも、「おかしいところはおかしい」と疑問を持ち行動するところにある。僕らの世界は、僕ら自分自身で尺度をつくり、結局時間の緩慢とした流れの中でそれを常識と思い込む。究極の客観性に身を投じたパパとムスメは、文字通り、他人の立場でものごとを解釈することで、成長を遂げる。

一時の邂逅をえたパパとムスメの物語だが、最後はこういう文章で結ばれる。

「おそらく、小梅(ムスメ)のいうとおり、これは特別だったのだろう。これからも小梅とわたしの関係は変わらないはずだ。ろくに口もきかず、話すこともなく、今までと同じように。
私には娘の気持ちはわからない。そして小梅にも父親である私の思いは伝わらないだろう。それを私たちは今度の不思議な経験を通じて理解した。」

互いの立場を体感することでわかったのは、けっきょくは自分と他人は違うという事実。
しかしその事実を正しく認識したところに、相手への許容があり、認知がうまれる。
そういう気持ちよい真理を伝えてくれた本だった。

ただ・・・

漫画みてーなもんだな、3時間で読めたぞ…。これで1700円か。。。


情報氾濫時代と耳栓

とかく多い。
何が多いって、情報。
世界がはじまって以来、今がマックスで情報が多い。
情報カンブリア時代とはよくいったもんだ。

インターネットの世界は、社会学者テッドネルソンのザナドゥ理論によって幕を開けた。
ザナドゥ(Xanadu)は「桃源郷」の意である。
ネルソンは人類のあらゆる知を詰め込んだ電子図書館を作りたかった。
究極の知の集積体。

後にバーナーズリーや、TCP/IPの生みの親であるヴィント・サーフ(現在Googleに在籍)が、WorldWideWeb(WWW)の発展に寄与した。

それからというもの、世界の顕在的・潜在的あらゆる情報が流通した。

Web2.0の台頭は、もとをたどればそこにあると思う。
氾濫した情報の量たるや、人間の情報処理能力を遥かに凌駕していた。
インターネットの発展とそれに伴う情報量の急激な増大に対して、人間のCPUは追いつけなかった。
検索エンジン、地図サービス、ウェブログ、これらはこれまでも技術的には可能であったことを、より社会一般化するために普及し、人間は自分の情報処理能力の制約からそれらを嬉々として受け入れ、そして支持した。
とみるに、WWWの世界は、技術的イノベーションによってより利便性を増しただけであって、その実、その黎明期以上の社会的イノベーションは未だ創出していない。
2ちゃんねる創始者のひろゆきの言うとおり、恐らく社会的イノベーションは期待できないのだろう。
こうなるんだろうな、と現時点で想像が可能な未来、それ以上の未来はきたいできないのだろう。

溢れた情報は、最終的にはその消費先を求める。
歴史的に見れば、物の過剰生産による周期的な恐慌は、その危機を回避するために、最終需要の暴力的な創出、すなわち軍事の拡大や帝国主義的な戦争の創出を招いた。
ではこの情報の過剰生産というべき状況は最終的などのような状況を生み出すのか。

タレント若槻千夏のブログ(「麻婆豆腐は飲み物です。http://ameblo.jp/wakatsuki/」)の中で、こう書いている。

***
私は他に覚えなきゃいけない事があるから普段耳栓をしているんです

耳栓をとったらびっくりドンキーのハンバーグの美味さにビックリしなくなっちゃうから

私はずっとずっと耳栓をしているんだ
***


情報氾濫時代と耳栓。
なんとも皮肉であるけれど、なんとも考えさせられるところではある。


季節感を感じる術

昨夜は江戸川花火大会があったらしい。

林立するパチンコ屋の空気で澱んだ普段の新小岩駅北口も、浴衣を羽織った女の人のおかげで幾分か華やかにみえた。

ちょうど一年前の江戸川花火、僕が上京してきたその日に(正確にいえば戻ってきた)、うえつき夫妻のお誘いをうけて見に行ったことを思い出した。まだ洗濯機もない下宿先のマンションで、時間を持て余していた僕にとっては非常にありがたいお誘いで、東京の花火の雑踏や、下町の人間特有の雰囲気というのもなにか感じ取れたような気がする。

洗濯物を干しながら、花火へ向かう家族連れやカップルをベランダからぼんやり眺めていると、前の会社を辞めて一年経ったことを思い出した。よく考えれば、実は臆病者で堅実な生活を求める僕が、よくもあんな決断を下せたものだと不思議に思う。

もっとスピード感のある環境で自己成長を遂げたい、日々のルーチンワークの冗漫さに埋没している自分の存在意義、そういったありがちな青臭い鬱屈が、梅雨の湿気で醸成されてしまい爆発しただけなんだろうなぁ。結局は衝動的な決断なのだけれど、それに対する理路整然とした後付けを用意して自分を納得させてるみたいなもんだ。

今も同じく、この会社にずっと居てもよいものなのかと考えてる。今の仕事は性分に会っている。あきっぽい僕からすれば、毎日のように取り組むべき仕事の内容が変わる今の会社は、辛さも感じるけれどやはり前の会社よりは心地よさを感じているんだろう。ただ、やはり長い期間籍を置くべき会社じゃないなぁとも。まだもう数年は働く気ではいる。

新小岩公園で手持ち花火をしようと思い立ったのは前日。突然の無計画な誘いにのってきてくれたのはTさんだけだった。Tさんは浅草の寿司屋で真昼間から酒と寿司を食らってきたという勝ち組っぷりで余裕の参上。線香花火を買って、新小岩公園に向かう。公園に向かう途中の団地から、納涼の祭囃子が聞こえてきた。小学生の頃、夏休みの一大イベントが小学校の校庭で開かれていた盆祭だった。開催場所は毎日通学していた小学校、集まる面々も小学校の友達、よくよく考えればまったくもって非日常なんてことはなかったんだけどな。あんず飴を食べたことがないと言ったらTさんから一笑された。祭当日の限られた小遣いという制約下で、あんず飴は候補に入んなかったもんなぁ。

線香花火。火がついてから、玉になって丸まりながら、パチッパチッと鳴らしながら火花が飛び散る。昔からそうだが、どういう原理でこうなっているかわからない。別にわかろうとも思わないけれど。花火にすらこんな憂いを感じさせる日本の文化がやっぱり好きだ。なにより線香花火という名前が良い。線が香る。昔の日本人の文学センスというのは今からでは到底推してはかれない深淵さがある。火の玉が地面に吸い込まれていく様をみながら、昔はもっと長い間火玉がもっていた気がするんだけどなぁなんて考えてた。安物の線香花火だからそうなのか、やっぱり昔と今とでは時間の捉え方が違ってきているのか。後者だとすると少しもったいないし、切ない。

花火の残骸をかたづけて、余った線香花火を土産に屋台のおやじのとこに向かった。Tさんと話すようになったきっかけはあまり覚えてないけれど、どうやら最初はあまりよい印象をもたれてなかったらしい。僕は基本的に人見知りだ(社会人になっては社交辞令で仮面を被ることは覚えたが)、とはいえ最初の段階で関わりを持たないと結局最後の最後まで話をしない。で、ふとしたタイミングで、最初知り合ってから2年ぐらい経って、あるきっかけで話をしたりするとそこから仲が良くなったりする。たぶんTさんと僕とは根本的には考えが異なるのは間違いないんだけど、すんげー話は聞いてて気持ちいい。

深夜2時頃、家に帰る途中の道で、悪そうな若者が群がって何をしているかと思いきや、男だけで線香花火を見ながら切ないだなんだとつぶやいていた。以前、梅原猛の話を聞いたときに彼は、たとえ世界が物質社会や科学技術社会によって変容していってもそれは表層的なものであり精神社会や文化基盤というものはそれほど大きく変わるものではない、と言っていた。たぶんそうなんだろうなぁと少しほくそ笑んで家に帰った。

もう8月。

花火をすることでようやく気付く。

季節感を感じる術というものを失っている自分がすこし悲しい。

美味しいものを食べにいきたい。

体を動かしたい。

本を読みたい。

音楽を聞きたい。

おしゃれをしたい。

少しはお酒を飲むこと以外のことをしてみっかなぁ。


選挙色々

たとえば、党首演説を見る。安倍さんの演説は昔に比べて上手くなったと思う、自分の温厚なキャラクターとのギャップをみせ、激情の演説を見せるようになった。社民福島さんの倒置法を多用した演説は時として生理的嫌悪感を促す、倒置法は適当な回数で配置された場合には効果があるか、多用する彼女には煩さしか感じられない。新党日本の田中さんの演説は文化人の匂いが抜け切らない、立て板に水の如く並べられた上品且つ斬新な言葉の一つ一つは、おそらく大学出のインテリゲンチアの耳にしか届かないだろう。

僕の住む新小岩の駅前でも、「○○を宜しくお願いします。○○、○○を宜しくお願いします。学生時代に田久でならしたフットワークが自慢です。フットワークは軽く、責任は重く。」と。最早何をいいたいかわからないし、こうもなると不快にすら感じる。しかし、結局、札に候補者の名前を書くとき、こういう演説が有効打になる。

僕らが得る情報は、情報発生源からの伝達過程において、自分以外の第三者、ある思想、ある概念、様々なものによって不本意な取捨選択を受け、偏ったかたちで耳に入る。例の爆弾発言は久間さんが地方で行った非常に閉ざされた会議体から拾ってこられた。赤城さんの事務所費問題は、それらと同程度の問題は彼に限らず、また与党野党に限らず、散らばっていると推察できる。これは邪推ではないだろう。
あるタイミングで、ある事件が、報道される。神のみえざる手ではないが、「ある情報をインプットとして、これまでの自分の知見及びポリシーを通じて、考えをアウトプットする」という一連の思考プロセスは、「ある情報」というインプット部分からして誰がしかの作為が働いている。

選挙戦略というのは、ある短期間のうちに凝縮された面白いマーケティング劇の一つ。
仮説をたててから、検証までの日数が比較的短いため、毎度選挙のタイミングでは、いろいろなことを考えさせられるし、年をおうごとに各候補者のマーケティング的周到さが増しているように思われて、なにか恐ろしさすら感じる。

というわけで、映画紹介。
東大出身の主人公がひょんなことから地盤もなにもないしに選挙に出馬したときの模様をうつしたノンフィクションドキュメンタリー。日本の選挙の異様さを、皮肉と笑いを含め上手く捉えており非常に面白い作品。


流れをよまないCM

1リットルの涙を再放送していますね。
1リットルの涙、といえば沢尻エリカの代表的なドラマ。高校生にして不治の病を宣告された沢尻エリカの悲哀を描くドラマで、まぁお泪頂戴的な流れであることは明白なのだけれど、これが恥ずかしながらどストレートに人の涙腺をつついてくるわけです。
で、沢尻の悲しげ~な顔がうつって、CMに画面が切り替わるのですが、例のペプシのCMのドSな沢尻の顔が画面に現れ「ん~、いいんじゃないの?」とか挑発的な感じで訴えてくるのね。
もうね、「お前いままで死にそうだったじゃん!つーか、おまえドラマん中ではすげー純粋無垢な良い子キャラじゃん!」とかね。ほんとね。
テラ萎えるww

んでニュース番組もね、そうなのよ。
キャスターが遺憾を如実に示した面持ちで「トラックが暴走し、児童の列に突っ込み、児童一人が死亡とのニュースが入っています。それではCMの後、引き続きニュースをお送りします。」とかゆってる1秒後のCMがこれ。「挽きたての香り~贅沢な時間~・・・」。まぁコーヒーのCMなんだが、テレビ画面を見ていないと「挽きたて」と「轢きたて」の区別すらつかなくなるわけですよ。
テラカオスww

CMをどこのスポット枠に入れるかどうかなんて、そりゃ番組の種別も見た上で判断するものだけれど、ドラマの当日のストーリやら、ニュース番組の当日の項目やらは読みきれない。
それが時として、意図しない意味や印象を与えてしまうんでしょうね。


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