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怯える街、京都。

学ぶに学びにくいのが京都

↑yutakami先生からトラバりました。↑

たとえば景観規制があることで、京都には高層ビルが建たない。
このことが京都の経済発展の枷となっているとある者は言えど、それは間違いなくコンピタンスを無視した話と一笑に付すことができる。関西には既に大阪という一大経済都市郡が存在し、30分程で足を運ぶことのできる京都に大阪の都市機能と同じそれを求めてはならない。とはいえ一方、京都ブランドが日本随一のそれであることは自明の理であるのだけれど、観光都市としての京都の今後の経済発展性・収益構造、そして経済都市(特に教育機関が多い京都においての産学連携ビジネスや、ローム、京セラ、任天堂をはじめとした京都発祥の世界的企業の存在)としての京都の今後の発展性・収益構造、これら2つを秤にかけることは非常に悩ましいと感じている。

京都と東京。
伝統の重み如何の、いわゆる程度の話はあれど、いずれも日本の観光都市の代表格であることに違いはない。東京も多くの歴史建造物や故きを温ねるスポットはあるが、その反面、超近代都市としての様相を見せる。そして、-たとえば恵比寿ガーデンプレイスとその横に外れたときの町並みがそうであるように-路地一本をはさんで、光と影ともいうべき、まったく異なる表情を見せる。歴史的にもデザイン的にも一貫性を漂わせる欧州の都市国家と異なり、和洋折衷、新旧混交といえばよいのか、色々なものがごちゃごちゃと織り交ざっている不思議な表情。人によってはそれを「汚い」と取るだろうし、他方で「混沌の美」とも受け取ることができる。
東京という街は大きな一つの袋のように思える。
なんでもかんでも食べてしまう大きな袋。

京都はそういう姿を嫌っているように見える。近代的な建造物と歴史的建造物、そのコントラストというものは京都でも多く目にすることができる。多くの芸術家やデザイナーにとって、京都とは、そういう実験的な試みに最適な街なのだろう。そういう挑戦を京都という街は"ある種"受け入れてきた。ように思える。が、実際はそうではない。「京都はそういう姿を嫌っている」と書いたが、実際のところは「京都はおびえている」のだろう。ブランドは自身が作り、周囲のイメージによって決定される。京都は、自身が京都であることのブランドを獲得し、それにより一定以上の成功を収めたが、それは同時に「京都は、皆がそうおもう以上に”京都らしく”あり続けなければならない」という宿命を持つことになった。東京にように、袋にはなれないのだ。自分が食べていいもの、食べるべきものを、常に慎重に吟味しなければならない。
京都はこれからも永続的に、自身が京都であり続けることに熱心に取り組むだろう。
それは、常に競争優位性を確保し、参入障壁を設け続けることに他ならないビジネス上の大きな闘いだ。

大きな袋 東京。
怯える街 京都。

僕が爺になったときに、どちらがどのような表情を見せているのか、非常に楽しみなところなんである。



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